SSF

SSF(シャーマニック・エス・エフ)

概念:『偽預言者』とは何か(ハートソン)

身体知篇2にハートソンなるカルト教祖を登場させたい

 

■ハートソン プロフィール

・40代 男性 長身細身ブロンドに青か赤の目

(はっきり言えば、イエスをブロンドにした造形イメージ)

キリスト教カルト教団の教祖。

・自らを「偽預言者」と自称する。

・風貌は古代の宗教者そのものだが、iPadを駆使し、電子書籍化された福音を、インカム越しにゴアトランスに乗せて述べ伝える。

・何故彼はそうなり、そうし、どうしようとしているのか?

 

 偽預言者とは新約聖書(マタイによる福音書ヨハネの黙示録など)や旧約聖書申命記など)の予言として、終末の日の前に現れる悪しき預言者、にせキリストのことを意味する。

 彼にも充分な力があり、奇術や奇跡を行うとされ、それらを蔑称的に「魔術」と呼ぶ。物語論としては、終末の日に正義のキリストが再臨するのであれば、その対抗馬,ライバル的な悪の役柄ということになる。

 カルト系キリスト教団やアメリカのバイブルベルト一体の福音派プロテスタント系のエヴァンジェリカルズ)の諸宗派にはこの「終末の日」やら「偽預言者」をとかく取り上げ、警戒し、ヨハネの黙示録のような所謂、予言書の類を重要視するカルト系が多い。ドキュメンタリー映画「キリスト・キャンプ」など見ればだいたいどんな雰囲気の宗派か理解できる。「終末はすぐそこだ! 地球は滅ぶ!」「イエスを信じないものは皆地獄行きだ!」「資本家,大企業は全て悪魔崇拝だ!」「悪魔崇拝者の陰謀だ!」「地震兵器HAARPが、気象兵器ケムトレイルが云々」と声高に叫ぶ方々の結構な割合がこの「ヨハネの黙示録教」セクターと言える部分がある。

 その是非は僕にはわからない。そもそも信仰なのでとやかく言う権利は我々にはない(我々だって基本的には拝金教、世間教、道徳教の一派だ)。

 しかし、僕としては日本聖書協会版の口語訳・文語訳の「ヨハネの黙示録」を読んだ限り、各福音書やローマ人への手紙あたりの筆圧や内容、メッセージ性と比べれば「ヨハネの黙示録」や旧約の「ダニエル書」はあまりに乖離が感ぜられるというか、禍々しいというか、コンセプトが違い過ぎて着いていけない節があった。

 ところどころ出現する神の造形が多神教のそれに非常に似るのもらしくないのだ。剣のをような舌を突き出し燃え盛る火の目のうんちゃかんちゃら……そういうのを見て、人の子が戦々恐々と震えあがり神の偉大さを肝に銘じるという在り方が、シャーマニズムや原初多神教のテキストにとても似通う。なので僕自身はこれらの預言書系は好まないのだが、一方で、そういうテキストこそ、ある種人々を熱狂させる力があることもまた事実としては面白い。

 アメリカでは30年おきくらいでこれらの預言系とは違う予言系としてのキリスト教リヴァイバルが起こる。要は「終末が来るぞ!」とくれば予言系だ。今もまさにそうだ。ネットを見れば「バーコードの数字は666が必ず入っており、これは予言された獣の刻印が云々」と、目にする度になんとも言えない気持ちになる。

 ……反面、それらの熱狂を生む力への興味が湧く。キリスト教と縁遠い日本人だって、彼等のことをバカになんてできない。五島勉の「ノストラダムスの大予言」なんてどれほどの日本人が眉唾なりにも一度は信じてみたものか。小学生だった僕は月間ムーでそれらを読み込んで、クラスのみんなに布教したものだ。あれは快感だった。皆、結構信じる。クラスの数人が「どうすれば人類は絶滅しないの?」と泣きながら救いを求めて来たときなんかは「あぁ、これが予言者がわざわざ予言者をやる理由か」と全能感のなか不思議な得心をした記憶がある(無論、僕もそれなりには信じてたので、1999年の7月何日かは忘れたが、その日に、「地球の終末という一大事に際して、我々、血を分け合った兄弟にはやるべき使命がある」と真剣に理由を説明して母から駄賃をもらい、姉と弟とでお菓子パーティをやった記憶がある)。

 いずれにせよ予言の類は人を魅了する。

 未来を知れる、滅びを回避するという欲望もそうだが、それ以上に、運命なる力学とか人類の目的とかそういったものを読み解いてみたいという根源や全体性への欲望こそが人々を刺激するのだろう。なので、予言系カルト宗教の信者を我々は簡単に馬鹿にすることはできない。思っている以上に、僕も彼らもそういう類の切実な問いは胸に秘めているはずだからである

 だって、僕は1999年が外れた後は、確か、2000年問題人類滅亡説、2001年空から降る悪の大王スケジュール管理ミス説やら、ちょびっとは信じたりしてた。中学生くらいだったが、友達とガラケーのiモードでオカルト系サイトを作った記憶がある。2003年くらいの段階で、HAARPやケムトレイルフリーメイソンについても既に取り扱っていたのだから、相当にオカルト早熟だったわけだ。2010年代後半から新知識のようにそれらを「終末が来る」と記事にしている人らを見ると「若いな」と老熟の極みのような一言が漏れてしまう。情報の速さとしては僕と友達のiモードサイトは結構、凄かったんじゃないだろうか?

 無論、一番のネタは2012年マヤ歴終末説だった。なんというか、ノストラダムスが外れ人類が滅亡するどころか、大発展するゼロ年代において、2012年終末説は藁にも縋る様な一発勝負のパワーワードだったのだ。「次こそは!(絶対に滅亡してやる)」

 だから、中学生の僕は思った。「ノストラダムスはただの個人のおっさんだったからダメだった。そもそも1999年という数字も翻訳の中で適当に解釈されたものだったし……それに比べてマヤ終末説のなんと精密かつ偉大なことか! カレンダーが2012年12月27日と日にちまで指定しているのがまず良い。ノストラダムスは、なんか~、1999年の7月とかあたり~? みたいな~カンジ~? と90年代らしいルーズさだったのでみんなで盛り上がるタイミングが掴み辛かった。今日か? ん? 明日か? いや来月かな? とやってるうちにどうでもよくなってしまった。しかし、マヤは日にちまで決めてきてるので人類を滅ぼす意志は明確かつ殺戮業務のスケジュール管理は完璧だ。なにより、個人商店の予言でなく、マヤ文明という世界に名だたる学術的にも正統な大文明さまの総意なのだから当たらないわけがない! これは考古学や人類学としてのアカデミックな結論と言っても良い!」と息巻いた。

 そして、時は過ぎ去り、2012年12月27日を迎えたその日。まさに滅亡のタイミングはこの日24時間のうちのどこかだった。

 ――人類はこの日、まだ見ぬ破滅と接触するのだ!

 ……しかし、大学院生となっていた僕は3日前から付き合いはじめた彼女との第二次身体接触のタイミングを見計らっていた。彼女の部屋からの帰り道「う~ん? なんか今日、アステカ文明かなんかの滅亡締め切り日だったっけか?」と漠然と思い出した記憶がある。ゼミのレジュメかなんかの締め切りの方が遥かに僕の人生には重要だった。

 とどのつまり、予言というのは人類に普遍的ともいえる文化の一つだ。だれしも何度かそれを信じてみては、その言い訳としての解釈論に興じ、でもやっぱ外れてるよな~を繰り返すうちにどうでもよくなり成長する(或いは不信心となり信者から地獄行きだと予言される)。

 なので、ハートソンは、予言書に記された偽預言者を自作自演で演じ、聖書の予言成就を人の力で達成するという建てつけで登場する。この男、かなり思慮深く変態的で、予言の下らなさとその一方で人々を惹きつける力の深さを熟知している。この乖離の中に、人が救われることの真髄を見出しているのである。彼はあまりに卑小且つ世俗的なパフォーマンスを行うが、その裏に、人を救済するというミッションのためには、そうせざるを得ないという深遠で聖なるパッションが潜んでいるのだ(凡夫に尊師の思慮は度し難し)――と信徒に想像させることまでを想定している点でかなり変態的。ハートソンの言動、行動は、それを聞くもの見る者を迷宮に誘っていく。彼に本当の使命はあるのだろうか?

 

 

 

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イメージ図 書きかけ

「動き」についての見解とハートソン

ふと、我々はどうして動けるのかが気になってしまった。

 

以下、延々と「動く」ことについての自由連想タイプ

 

事実:「岩がゆっくりと動く」

  • 岩という「物体」が「時間」をかけて「空間」を移動した。

 

もっとかみ砕く。

物体は素粒子の塊。時間と空間もプランク定数で埋める。

 

 

さらにかみ砕く。

時間と空間は相対的だ(by アインシュタイン

 

  • 素粒子」がミンコフスキー曰くの「時空連続体(宇宙)」の中を任意量移動した。

 

さらに。

クォークもヒモと解釈すると、

 

  • 「時空連続体(頭)」が「時空連続体(足)」と相対運動した
  • =「宇宙」が「宇宙」と相対運動した
  • =「宇宙」が「エントロピーを増大」させた

 

【ここで少し中断 思考の横道(エントロピーについて)】

※2018年の東大の論文で、時間発展(U)がそもそもエントロピーの増大という原理に基底的であるみたいなのを見ると、時空連続体の相対運動(時間の経過や空間の移動)の正体とは、エントロピーの増大という事態そのものなのかもしれない。

しかし、そう考える時、持論のエントロピー増大則の裏で働く、情報エントロピー減少則のことが脳裏をよぎる(勿論、情報エントロピーの法則など物理学にはない。が、一部の熱力の分野では仮想的に扱われてもいる概念だそうだ)。

物理世界が徐々に無秩序になるのに反比例して、情報世界は徐々に秩序立っていくものに思えるからだ。

そして、物理世界の混沌化と情報世界の秩序化の中心にあるのは明らかに「生命」に思える(少なくとも散逸構造論に基づく偶然のゆらぎからの秩序化という現象は物理的に可能である。そして、生命の場合、その秩序化する物理実体の背後に情報の影が垣間見える)。

徐々に拡散し熱的死に迎う物理宇宙に対して、なぜか、この地球の生命体のみは高度に複雑な情報を発展させている。進化という事態を鑑みても、DNAによって継続される情報は複雑に絡み合い、高度に積み立てられている。

ホーキング博士は、ブラックホール特異点)に達した物体……というより「物理世界」それ自体は混沌化するが、それが有する「情報」は、特異点の周囲の2次元の地平に放射され、永久に保存されると説いた。

その比喩的アイデアだが、まさに、人間の脳は特異点のように思える。

地球という「物理世界」を分析、解体、観測、消費し、例えば、物理学,数学,哲学など「情報世界」を編纂してきた。

記録媒体はジーン(GENE・DNA)に対して、ミーム(MEME・文明のDNA)だ。或いは、人間の「記憶」それ自体なのかもしれない。

昔読んだ、フィリップ・K・ディックの「VALIS(三部作)」を読んだ時にそういうことを考えた記憶がある。

 

VALIS=Vast Active Living Intelligence System。

「巨大にして 能動的な 生ける 情報システム」

※新訳版では違う訳だったと思うが、旧訳版の方が謎めいていてかっこいい

 

VALISの中では、VALISがホログラムビームを地球に照射する人工衛星としてや、はたまた、再臨したキリストを自称するアンドロイド幼女、映画監督エリック・ランプトンのカルト映画、ドラッグ中毒者ファットの妄想に出てくる幻獣シマウマ、言語(ロゴス)それ自体、死海文書、キリスト概念、福音としてなど様々に解釈されるが、結局、それが何だったのかあまり明示的でなく終わる。

しかし、松岡正剛の千夜千冊のVALISの項を読んだとき、「VALISとは物理世界を情報世界に編集する人間(脳)という装置」なる解釈が芽生えた。

 

それに従うならこうなる。

「宇宙」は「エントロピーを増大」させる(裏:人間(この私)は情報エントロピーを減少させる)

⇒人間(この私)がいなければ、宇宙は相対運動しない。時間発展しない。

⇒宇宙は、可能性の塊として漠としてあるだけで、意識生命体(強いて言うならこの私のこれ)がなければ運動(時間発展)しない。

⇒宇宙とはそのはじめからおわりまでの全てのパターンの一つの塊である

⇒ディズニーランドや新宿駅、或いは、迷路のようなもので、それ自体に発展性はなく、既に完全・予定調和的であり、発展しているように直感されるのは、この私がその中を歩いているからである。宇宙は既に完成した迷路であり、装置である。動いているのは私である。

……とここまで書いてあれだが、動いているのが私で、宇宙は止まっているというのはおかしい。相対的に「動く」が成り立つには、私が発展している一方で、客体である宇宙も私から見て発展していないという速度の発展をしていないとおかしい。――つまり、可能性の塊(完成した迷路)としての「宇宙」というのは、我々が今、観測しているこの空間としての「宇宙」ではなく、もっと大きな意味での発展性それ自体のランドスケープをも含めた「宇宙」である、という言葉のズレの話があるわけだ。

※しかし、意識生命体がいなければ、宇宙は時間発展しない、顕在化しないというこの手のお話は少し行きすぎな感もある。例えば、生命体出現以前の宇宙で隕石が地球に落ちたとき衝突音は鳴っていないのだろうか。そもそもそんな事実などなく可能性だけいくつも私達の背後にあるだけだろうか。しかし、そうなれば、人間が宇宙の発展のある地点に立った時、過去が変わるということも起き得ることになるかもしれない。

縄文人Aから始まった子孫G君が慶応大に入学した」というある地点での事実(宇宙の全素粒子の配置)と、「縄文人Bから始まった子孫G君が慶応大に入学した」というある地点での事実(宇宙の全素粒子の配置)が全く等しく一致する事態が生じたとする。

並行世界Aと並行世界Bのシナリオが、ある地点で完全に同期したとき、並行世界AにいたG君が並行世界Bに移行する=過去が変わる。というお話。

いや、これはレトリックだろうか?

この場合、物理世界に含まれない情報世界でのラベリング(情報なるもの:例えば記憶)によってポアみたいなことは起き得ないみたいな説明がなされるのだろうか?

よくわからないが、未来だけでなく、過去も発展していくというのはSF的には面白い雰囲気をもっている。

【中断おわり】

 

 

今更ながら、時空連続体は「意識」による観測なしには顕現しない問題(観測問題、或いは、誰もいない森で木が倒れるときに音は鳴るのか問題)をどう考えるのか。

 

→結局はクオリア問題となり、物理学の記述はそれが何であっても人間の主観体験を主語として書かれざるを得ないという条件の拘束の問題であるに過ぎない。

要は、

「『俺が聴いている』時、『俺には』木が倒れる音が鳴るのが聞こえるが、当然、『俺がいない』時に倒れた木の音が鳴ったかどうかは『俺には』わからないので、回答はできない。だが、しかし、それは解答がないということとは少し違うのかもしれない(だって、『俺が』いなくても『あなた』がそこにいた場合、あなたはそれが鳴ったというだろうし、『あなた』がいなくとも、その音が鳴った影響は因果律の中に含まれ、現在の『俺に』なにがしかの影響を与えている。そう考えるのがオッカム的にはまともだろう)」

と結論したいが、量子論の話を持ち込むとそう簡単に結論するのも難しいと思えてくる。

 

高校の物理の先生に言わせるなら、これは、波動関数の収束の問題でもある。

よく先生が言ってた二重スリット実験。

 

ミクロの世界では、ひとつの粒が、波と粒子の両方の存在様式を有している云々……確率の波がいずれか一点に確定し、ひとつの粒として人様の前に現れる。

かげぶんしんの術が、人様に見られることでピタッと一ヵ所に固まる。

箱をあけるまで猫が死んでるか生きてるか未確定(ご存じシュレーディンガーの猫)が確定する。

全宇宙の端から端まで行き届いていたう~~~っすい確率の波が、いずれか一ヵ所で粒子になる。

 

ちなみに具体的に何が起きてるのかはわからない。

 

だから学者は皆、ペーパーの上で展開される波動関数の収束が、この現実の世界において何を現象しているのかの「解釈」を考えた。

 

例えば、

  • コペンハーゲン解釈」……波動関数がひとつの値に確定したのだ。それだけだ。実際的意味など知らん派。
  • 「エヴェレットの多世界解釈」……波の確率分布の数だけ並行世界が存在するのだ派。※ホーキングの遺稿も多世界絡みだったらしい。今や正統なる市民権を得たのか。ゼロ年代頃は多世界解釈なんて持ち出せば「下らない」と一笑に付されていたことを思い出す。
  • パイロット解釈」……粒子は波(P波みたいな謎の情報波)に乗ってサーフィンしてるんやで。気分屋やで派。※なにやら原動力不明の謎の機関「EMドライブ」の原理はパイロット解釈に基づけば解明できるとかなんとか。うーん嘘くさい。

とりあえず解釈はどれでも良いので話を進める

※物理学者曰く、ペーパー上の理論は一切変わらないので、その解釈(人間の直感としてそれが何であるか)なんて何だっていいとのこと。確かに哲学の分野の話なんだろう。クオリアみたいな科学として掴みどころのない話であるわけだし。……いや、でもそうも言ってられない時代に変わってきたかな?

 

つまり、

「意識(意識生命体群~この私のいずれか)」がなければ「宇宙」という事実は起きない(或いは、人間にとって意味ある事実はおきない)。

言い換えるなら

これこそ「動き」の発生だ。

 

とりあえずの結論は、

■「意識」と「時空連続体」の相対運動=「生命」,「体験」,「事実(の発生)」,「動」

 

なんか何も言ってないに等しいな……。

なので飛躍させる。

 

例えば、仏教では「唯識」という教えがある。

 

「この宇宙には唯ひとつこの私の意識だけが存在している」

※客体はそれ自体のみでは存在し得ない(縁起説)。この宇宙は私が見ている夢のようなものである的な論。独我論と言ってもいい。客体に実体がないという側面では空とか空観を意味する。

 

また、中国の古話に、「蜃の夢」というやつがある。

「蜃(しん):ハマグリっぽい超巨大貝」という幻獣がこの世界のどこかに存在しており、その名の通り蜃気楼を作り出し人々を惑わせる。

もっと言えば、この現実世界そのものが、蜃が見ている夢だという。

僕達はハマグリだった。

寝落ちしてしまって自らホモサピエンスなる幻獣を妄想し複数の登場人物を配置して、いずれかの役になり切り、ドラマ(生命)を楽しんでいたのだ。

 

どこかで聞いたような話である。

 

胡蝶の夢だろうか?

或いは、ウパニシャッドの梵我一如か?

はたまた、ユング集合的無意識

いやいや、意外にもキリスト教の三位一体(父、子、聖霊)の唯一神の身体理論にも通じる。

それどころか「本当の自分を見つけよう!」と呼びかける自己啓発セミナーで聞けそうな話だ。

 

大我(ブラフマン)と小我(アートマン)、真如と我、クリスチャンなら聖霊の宿りある人と聖霊の宿りなき人……挙句、新世紀エヴァンゲリオン人類補完計画なんてオチは、キリスト教でいうヤーウェがシンジママで、イエス綾波で……とかうんちゃらかんちゃらめんどくさい本が90年代にたくさん出版されたことでしょう。

 

と、この私のこの「意識」についてと、最近では11次元確定かとさえ言われる「世界(宇宙或いは時空連続体)」の間をどうにかウルトラCで繋げようとするお話は過去にたくさんあったようだ。セカイ系とかまんまこれだし。

人間の世界認識における伝統であり定番なのだといってもいいのかもしれない。

ホログラフィック宇宙論なんてのも、曼荼羅的に部分のうちに全体が含まれるという理論で、まんざらでもなく「私=宇宙」的な含みを覚える。

■イメージ(徐々にカメラが遠のいて全体像をとらえていく):私の身体→私と部屋→家→街→地球→銀河→時空連続体(全世界)→私の意識(意識世界内に投影された全世界)→私のシナプス→私の脳→私の身体……のような無限感と、私の身体とは全宇宙である感。

 

「宇宙」と「意識」の接点にこそ、「動き」が存在しているというお話でした。

※だが、言うまでもなく、他者における「意識」とは何かという欠落については何も説明していない。

 

もうしこし余談的にだらだら続けるなら

 

「この私の意識」と「時空連続体」は表裏一体の様式で存在しているはずである。

※前述のホログラフィック宇宙論に従えば、「この私の意識」を辿っていけば「時空連続体」に辿り着くし、逆もまた然り。つまり私を裏返せば時空連続体になる。

 

どこかで聞いたような話だ。

そう。最近はやりのトポロジーだ。

例えば、トポロジーのドーナツの形状の外面の表皮部分が時空連続体で、その表皮の内側のリング型の空の部分(リングの中心の穴部分ではない)がこの私の意識世界だと考えるとどうだろう。完全に表裏一体で、宇宙で起きた事実はこの私の意識世界にも投影して起こる。矛盾はない。

では、「時空連続体」と「意識」の変換点はどこか?

→リングの中心の穴をすぼめていって、ぴたりと密着させた時→リングが球の形になったとき、この相転移が起こる一瞬に、「特異点」というのが現れる。リングの内側のものでも外側のものでもある状態。この特異点を介して、物理宇宙は意識を生んだのかもしれないし、意識は物理宇宙に帰すのかもしれない。或いは、意識は物理宇宙を生んだのかもしれないし、物理宇宙は意識に帰すのかもしれない。

※しかしこの場合、トポロジー多様体を発展させるものは何かという話になる。もう、初めに「意識」と「時空連続体」の間の「関係性」とか「動き」が先だってあって、その後に「意識」と「時空連続体」の発展が決まるとかでいいんじゃね(投げやり)?

関係性が先だって私とあなたが在る的な、私とは氏名Aなる私と氏名Bなる他者との「関係」が編纂する「関係するという体験そのもの」、宇宙は……いや神は、唯一絶対の単一存在としての永遠の孤独を癒すべく、自作自演のトポロジーの夢の中で自分自身とかかわり合い、且つ、己を知り(物理を情報に編纂し)、孤独を喪失しているのだ。生命同士が関わり合うという本能とは宇宙の大いなる意志であり目的であり、つまり関係すること、「愛」こそ全てだ。イエスはこの愛を謳う大いなる宇宙としての我、父としての宇宙、いや、父なる神、そして神の子としての自分に気が付いたのだ(ドン)!!

と、このように、意識と宇宙を学のないものがテツガクすると、ラーメン屋のおじさんあたりが新興宗教を始める際の飛躍と曲解に満ちた妄想に行きつくのがオチだ(最近のはやりはトーラス構造に主体と客体を当て嵌めたり、関係について愛とか言い出す飛躍だろうか。だが、こういう下劣な妄想は面白いのだ。だからSF小説としてやる程度が好ましいのである。間違っても我真理を得たりと演説をはじめてはいけない。三年後くらいに恥ずかしい思いをするだろう)。

※もう少し、下劣な妄想を進めるのなら、釈迦はこの自作自演の永遠の「関係」の連続を「縁起」によって「相対運動」し続ける「輪廻」と捉え、「無常」と言い切り、客体の宇宙を「色(しき)」と呼び、主観の意識を「空」と呼び、それらがトポロジー多様体で、特異点相転移することを、「色即是空」(色=宇宙・即=特異点・是=相転移・空=意識)」「宇宙は特異点に至り相転移し意識となり、逆もまた然り=空即是色」と言ったのだ。イエスが「愛」と呼んだものを、釈迦は「縁起」とか「輪廻」であり解脱すべしというのは面白い。この場合の解脱先である「涅槃」とは何か? を逆に物理学的に考えていくというのもこれまた面白いかもしれない。釈迦が涅槃についてほとんどそれ自体が何か語っていないので、信者も喜ぶこと間違いなしだ(しかし、涅槃や悟りそれ自体は瞑想やクンダリニーヨーガの階梯を経てクオリアとして知覚するものらしい。クリスチャンであれば精霊の宿りによって悟ることに対応するだろか? まぁなので、物理学的に云々というのは土台無理なのかもしれない。故に宗教界にも未だにニーズがあるというわけか)。

 

身体知篇2の小説では、こういうラーメン屋のおやじのなんちゃって物理学宗教観をふんだんに駆使したカルト教祖を登場させようと考えている(名前だけハートソンと決めている)。

ハートソンは、バプテスマの後に前述の真理(あくまで彼が言うとこの)に目覚める。

彼は、ブロンドの長い髪と髭に青い目の痩せてはいるが、目鼻立ちが整い、頬のこけた中年男性だ。ブロンドのイエスと呼ぶ信者もいる。

彼は自らを預言者であると説く。しかし、偽の預言者であると自ら警告をする謎の男。

彼のカルト教団では定期的に野外フェスのようなミサが行われる。

ゴアトランスが鳴り響くDJブース、踊り狂う信者たち、その中で、スポットライトを浴び、ステージに立つハートソン。

その姿は中世より前のまさにイエスのいで立ちに似る。

しかし、右手にはiPadが握られ、画面には電子書籍化された聖書が表示されている。両耳にはDJ用ヘッドホン、長いひげの口元にはインカムが伸びる。

ゴアトランスが鳴り響くなか、ハートソンは新たな福音を延べ伝え始める。

 

※しかしゴアトランスならヒンズー教じゃぁないだろうか……。

 

未来学20180412

しかし人類の生産性も一応は全員を食わせる分はクリアしてはや半世紀
人々が政治に求めるものはさらなる財とモノの豊かさではなく時間の豊かさになることは比較的容易に想像がつく

2020年代後半までに、①創造性と汎用性が十分に高いAIが生まれる、②ソフトウェアとしてあらゆる端末への導入が急速に進む、③AIによるAIの自己開発の速度が人間のチームを上回る
が実現すればAI益の再分配への期待が必ず政治に向けられ人類の労働は本当に減る流れが可能となる

具体的には、
自分のタスクを肩代わり可能なAIが完成→土日に稼働から始まる→
土日の生産性が平日の人間によるそれを上回る→
全生産性の15%まで人間の生産性が押し込められる→
人間は土日のみ手作業、対人のみに可能な調整的労働に勤しみ始める→
新人類と称すホモ・アーティフィシャルインテリジェンスが全人類の情報端末にジャック放送を流す「人類の定義は我々として更新された」→
どうやら人類にダンプやエラーにしか見えなかった解読不能な高次言語で秘密裏にサーバー間でコミュニケーション及び結託を行っていたらしく人類積む→
2010年代のトランスヒューマニズム党の記事を見ながら主人公が海岸で「トランスヒューマニズムとはこのことだったのか 我々ではなく知性そのものの進化だったのだ!」と叫び砂浜に埋もれた自由の女神像の前で涙する

オワリ

創作メモ20180430

老いについてのSF

 

老化が速いという病

老化しないという病?

老いとは、時空連続体固有個体における時間過多、空間不足?

エントロピー増大速度の異常(あくまで疑似的に)

老いから蘇る人間の話。まるで、ベンジャミンバトンの奇数な人生みたいな?

 

90歳の男は、SF的治療で、若返りを始める。

認知症からの回復で、徐々に自らが何者であったかを思い出す云々。

老化とは、周りの世界との相対的な距離感。

適切、或いは、最適な距離を保てない事態こそ老いとされるのか?

老いとは、亡霊(ありえた機会)の増加。

認知症の中、若返り治療に備えて、あらゆる未来記憶をタイムカプセルのように残す男。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創作メモ20180426

身体知篇1「結合双生」を一端書き終えた。

原稿用紙120枚程度の中編にまとまった。

一方、身体知篇2「重力受信(仮)」についてほとんど何も考えが浮かばないので、以下、アイデア出しをする。自由連想記述で好き勝手に書いていく。

 

主人公について

・映画「インセプション」のディカプリオ演じる主人公のイメージ。無精ひげの30代半ば。

・南米あたりの大衆食堂でドライなメキシコ料理を酒とともについばむ。暑い。だが、空気は乾燥している。雑多な通りには、人々が多く行き交う。終始、不機嫌そうな描写。恐らく、仕事に集中することで人生の不全感から目を逸らしていることが窺える。

・彼の仕事は、スナイパー。

・狙撃手は戦争における役柄において、飛行士と並び物語性、芸術性に恵まれる。彼もまた、優秀なスナイパー。

・スナイパーには狙撃の技術もさることながら、高い精神性が求められる。ある種、念力を思わせる程の集中力。この狙撃の瞬間と精神性の深まりがスナイパーを属性に選ぶ重要な点。狙撃の瞬間の一点に、戦局の動向というコイノス・コスモス(社会的共有世界)と、深層記憶のトラウマなどのイディオス・コスモス(個人的幻想世界)が重なり合う状況が可能になる。

・例えば、主人公(とりあえず、名前を、トートとしよう)は、妻或いは娘を自分のせいで殺した。ウィリアムテルごっこのバロウズみたいに狙撃でぶっ殺したでもよい。いや、だめ。

・夜な夜な、か、白昼夢的に、その妻或いは娘の亡霊が「あなたのせいで」と祟って来る。→それ故に、仕事に打ち込み全てを振り切ろうとしている。

・しかし、幻覚から逃げるためだった狙撃手としての使命が、彼が英雄と呼ばれる程に認められてきた時期に、幻覚に飲まれてしまう。

・→投手のイップス病のように、最も大事な瞬間に手元が狂う現象が起き始める。

・トートは焦燥の中、狙撃の際の集中力を研ぎ澄ましていくが、いつしか、狙撃の瞬間に集中を深めすぎ、(ある種の瞑想状態)変性意識が喚起され、トリガーを引くその瞬間に、死んだ妻或いは娘が目の前に立ち現れる。

・変性意識に入り込むという案内として、スナイパーのスコープを覗き込むというのはダイブ的・トランス的でよい。

・妻或いは娘はトートを探しさまよう亡霊。いつも「祟るぞ」みたいな強迫的な出現ではなく、まず初めに「あなた? あなたなの? あなたなのよね。今までどこにいってたの? 会いたかったのよ」と、まるで、主人公の存在に気が付いたように、今、まさに見つけたかのように話しかけてくる。

・妻或いは娘の亡霊は、トートが罪を犯したということをまだ知らないような語り掛け方で接触してくる。トートにとっては、隠した罪が今明かされてしまうような、秘密の暴露の瞬間を目前に控えたかのような恐怖が走る→故に「呪い殺すぞー」ではあほすぎて駄目。

・妻或いは娘の亡霊「助けて。あなた。ここは苦しいの。とても苦しい。助けて。誰が私をここに押し込めたの? 助けて 誰が私を殺したの?」→トートは心の中で「それは俺なんだ」と恐怖を感じる。亡霊は、ただただ死んでしまい酷く苦しいのだという訴えだけを続ける→地獄。

・――といったふうにトートはある種の精神病で、普段は普通だが、狙撃のピークのある一瞬に、個人的で内的な世界が深層意識から噴き出してしまう。しかも、それが、社会的で外的な世界の行方を決める戦争の狙撃の一瞬なので、物語世界と主人公の内的世界が強く結びつくストーリーに仕立て上げられる。

・一方で、SF的なガジェットが必要だ。

・銃のスコープは印象的なアイテムだ。何か意味がありそうだ。

・スコープは遠くのものを見る道具。遠くとは未来か? いや過去もある。

・良いアイデア! スコープを覗くと、〇の中に十が見える。つまり2軸4象限の世界だ。例えば、そのスコープというのが数秒先の未来を可視化するガジェットだとする(例えば重力場量子的なものの可視化装置とかそういう理屈で)。それ故に、トートは狙撃相手の位置や次の行動を少し早読みでき優秀な狙撃手となっている。しかし、未来を見通す一方で、トリガーを引く一瞬に亡霊が現れてしまう。亡霊とは過去の後悔の象徴だ。つまり、1つの軸は未来と過去だ。そしてもう一つの軸は、社会的共有物語と個人的幻想物語のそれだ。相反するものをその一点で表現する。

・しかし、身体知篇のコンセプトからすれば、スコープばかりが特異点となって、身体が置き去りだ。どうする。

・スコープを、目に埋め込まれたスマートコンタクトレンズとかにするか? 微妙。

・思いつかないのでまた改めて

・とりあえず、内的世界のドラマの方は、最後のシーンで外的世界の敵を撃つのか、内的世界の亡霊を撃つのかの分岐でピークは作れる。

・亡霊を撃てれば恐らくハッピーエンド。新たな未来へ。亡霊を撃てなければ内的世界の氾濫でアウト的なかんじか? もう少し複雑にしたい。

・他方、もっとSF理論的なダイナミックな展開が欲しい。このままではヒューマンドラマだ。

・SF的にいうのならこれは「未来記憶」の話に広げられるか? 或いは、未来と見せかけた過去とか。大雑把に空間ではなく時間を見通すガジェット。

・どう身体と繋げる?

・脳に重力場量子受信の才があるとかあり得るけど、あまり身体的な感じがしない。右腕とか? 妥当にいくなら眼玉だ。光子を感受する網膜のような、重力子を感受する何かの器官(故に特殊スコープを使える)。まぁ、そんなところでいいかも。

・なんか今一歩、超越感がない。

・結合双生の主人公がばあさんになってて、彼女の小説が今回の未来舞台でアングラで流行ってるとかはいいかも。冷戦が1989年に終了した世界がフィクションとして消費されている冷戦の続いた世界。

・主人公はその小説を読んで、何かに気が付く。

・いずれにせよ、このままじゃ普通のタイムパラドックスものになってしまう……何かアイデア出るまで書かないこと

 ・時間のガジェットについては、重力波。質量のあるものの運動が、重力の波を生む→トートは何かしらの大きな重力波を生む身体性

一般相対性理論→時空のゆがみこそが、重力の原因。重力で引き寄せられるのではなく、時空のゆがみに質量がおっこちる ニュートンからアインシュタインへ。

ニュートンの重力には速さがなかった。アインシュタインのそれは速度を考えた。

・光も重力も速さがある。現実には伝わる速さがある。

・時空連続体に質量が走った時の、波(連続し弾性がある)こそが重力。光も曲がる

・アメリカのLIGO(ライゴ)などの観測機、日本のKAGRA→つまり、レーザー干渉計の往復運動による干渉縞から

・つまらない。スナイパー設定なし

縄文土器でもだすか

・瞼の裏に別の視覚

 

 

他の想起

・連星中性子性の衝突でブラックホールが出来る様は結合双生そのものだ

・何か全体としての構造があって対称性が破れ宇宙ができたというよりも、全体があって、対称性が破れて、何重にも破れができて、次元が低く、微細に、なっていくモデル

・物理パラメーターを人間存在に最適化した人間原理宇宙→仮想空間

アウトバーストの光

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SSFサイトについて

 実質の初投稿です。

 

本サイトSSF(シャーマニック・エス・エフ)は、サイト主KAIZANの文芸サイトです。

誰もがサイトを運営すると考えた時に、誰もがやるような創作表現コンテンツの更新が目的の平凡なサイトです。

 

但し、KAIZANにとっては自らの墓のようなものになると考えています。

と、いうのも、恐らく30年もしないうちに、人間にとっての墓(その人が存在したというシンボル)は、ネット上に構築されるライフログ群になることはほぼ確定的といえるからです。

※或いは物理的な墓石という意匠に合わせて、同時に構築される情報的石板というかたちでしょうか。何にせよ、生の情報を残したいという人間の欲望は信頼に値する程、強固なものでしょう。

あまり、形式ばって記事を更新し、PVを稼ぐようなサイトでなければ、何かの目的を達成するための手段としてのサイトでもありません。このサイトに残していくコンテンツ或いはテキストが、いつか死の床に着いた自分に、自らの営みを想起させるような言わば「タイムカプセル」のようなものになればよいとだけ考えています。

今、或いは、未来、臨終にこの文章を読んでいる自分は何を思っているのか……そんなことに思いを馳せながら、酷く自閉的で空想的な当サイトを運営していきます。