SSF

SSF(シャーマニック・エス・エフ)

「動き」についての見解とハートソン

ふと、我々はどうして動けるのかが気になってしまった。

 

以下、延々と「動く」ことについての自由連想タイプ

 

事実:「岩がゆっくりと動く」

  • 岩という「物体」が「時間」をかけて「空間」を移動した。

 

もっとかみ砕く。

物体は素粒子の塊。時間と空間もプランク定数で埋める。

 

 

さらにかみ砕く。

時間と空間は相対的だ(by アインシュタイン

 

  • 素粒子」がミンコフスキー曰くの「時空連続体(宇宙)」の中を任意量移動した。

 

さらに。

クォークもヒモと解釈すると、

 

  • 「時空連続体(頭)」が「時空連続体(足)」と相対運動した
  • =「宇宙」が「宇宙」と相対運動した
  • =「宇宙」が「エントロピーを増大」させた

 

【ここで少し中断 思考の横道(エントロピーについて)】

※2018年の東大の論文で、時間発展(U)がそもそもエントロピーの増大という原理に基底的であるみたいなのを見ると、時空連続体の相対運動(時間の経過や空間の移動)の正体とは、エントロピーの増大という事態そのものなのかもしれない。

しかし、そう考える時、持論のエントロピー増大則の裏で働く、情報エントロピー減少則のことが脳裏をよぎる(勿論、情報エントロピーの法則など物理学にはない。が、一部の熱力の分野では仮想的に扱われてもいる概念だそうだ)。

物理世界が徐々に無秩序になるのに反比例して、情報世界は徐々に秩序立っていくものに思えるからだ。

そして、物理世界の混沌化と情報世界の秩序化の中心にあるのは明らかに「生命」に思える(少なくとも散逸構造論に基づく偶然のゆらぎからの秩序化という現象は物理的に可能である。そして、生命の場合、その秩序化する物理実体の背後に情報の影が垣間見える)。

徐々に拡散し熱的死に迎う物理宇宙に対して、なぜか、この地球の生命体のみは高度に複雑な情報を発展させている。進化という事態を鑑みても、DNAによって継続される情報は複雑に絡み合い、高度に積み立てられている。

ホーキング博士は、ブラックホール特異点)に達した物体……というより「物理世界」それ自体は混沌化するが、それが有する「情報」は、特異点の周囲の2次元の地平に放射され、永久に保存されると説いた。

その比喩的アイデアだが、まさに、人間の脳は特異点のように思える。

地球という「物理世界」を分析、解体、観測、消費し、例えば、物理学,数学,哲学など「情報世界」を編纂してきた。

記録媒体はジーン(GENE・DNA)に対して、ミーム(MEME・文明のDNA)だ。或いは、人間の「記憶」それ自体なのかもしれない。

昔読んだ、フィリップ・K・ディックの「VALIS(三部作)」を読んだ時にそういうことを考えた記憶がある。

 

VALIS=Vast Active Living Intelligence System。

「巨大にして 能動的な 生ける 情報システム」

※新訳版では違う訳だったと思うが、旧訳版の方が謎めいていてかっこいい

 

VALISの中では、VALISがホログラムビームを地球に照射する人工衛星としてや、はたまた、再臨したキリストを自称するアンドロイド幼女、映画監督エリック・ランプトンのカルト映画、ドラッグ中毒者ファットの妄想に出てくる幻獣シマウマ、言語(ロゴス)それ自体、死海文書、キリスト概念、福音としてなど様々に解釈されるが、結局、それが何だったのかあまり明示的でなく終わる。

しかし、松岡正剛の千夜千冊のVALISの項を読んだとき、「VALISとは物理世界を情報世界に編集する人間(脳)という装置」なる解釈が芽生えた。

 

それに従うならこうなる。

「宇宙」は「エントロピーを増大」させる(裏:人間(この私)は情報エントロピーを減少させる)

⇒人間(この私)がいなければ、宇宙は相対運動しない。時間発展しない。

⇒宇宙は、可能性の塊として漠としてあるだけで、意識生命体(強いて言うならこの私のこれ)がなければ運動(時間発展)しない。

⇒宇宙とはそのはじめからおわりまでの全てのパターンの一つの塊である

⇒ディズニーランドや新宿駅、或いは、迷路のようなもので、それ自体に発展性はなく、既に完全・予定調和的であり、発展しているように直感されるのは、この私がその中を歩いているからである。宇宙は既に完成した迷路であり、装置である。動いているのは私である。

……とここまで書いてあれだが、動いているのが私で、宇宙は止まっているというのはおかしい。相対的に「動く」が成り立つには、私が発展している一方で、客体である宇宙も私から見て発展していないという速度の発展をしていないとおかしい。――つまり、可能性の塊(完成した迷路)としての「宇宙」というのは、我々が今、観測しているこの空間としての「宇宙」ではなく、もっと大きな意味での発展性それ自体のランドスケープをも含めた「宇宙」である、という言葉のズレの話があるわけだ。

※しかし、意識生命体がいなければ、宇宙は時間発展しない、顕在化しないというこの手のお話は少し行きすぎな感もある。例えば、生命体出現以前の宇宙で隕石が地球に落ちたとき衝突音は鳴っていないのだろうか。そもそもそんな事実などなく可能性だけいくつも私達の背後にあるだけだろうか。しかし、そうなれば、人間が宇宙の発展のある地点に立った時、過去が変わるということも起き得ることになるかもしれない。

縄文人Aから始まった子孫G君が慶応大に入学した」というある地点での事実(宇宙の全素粒子の配置)と、「縄文人Bから始まった子孫G君が慶応大に入学した」というある地点での事実(宇宙の全素粒子の配置)が全く等しく一致する事態が生じたとする。

並行世界Aと並行世界Bのシナリオが、ある地点で完全に同期したとき、並行世界AにいたG君が並行世界Bに移行する=過去が変わる。というお話。

いや、これはレトリックだろうか?

この場合、物理世界に含まれない情報世界でのラベリング(情報なるもの:例えば記憶)によってポアみたいなことは起き得ないみたいな説明がなされるのだろうか?

よくわからないが、未来だけでなく、過去も発展していくというのはSF的には面白い雰囲気をもっている。

【中断おわり】

 

 

今更ながら、時空連続体は「意識」による観測なしには顕現しない問題(観測問題、或いは、誰もいない森で木が倒れるときに音は鳴るのか問題)をどう考えるのか。

 

→結局はクオリア問題となり、物理学の記述はそれが何であっても人間の主観体験を主語として書かれざるを得ないという条件の拘束の問題であるに過ぎない。

要は、

「『俺が聴いている』時、『俺には』木が倒れる音が鳴るのが聞こえるが、当然、『俺がいない』時に倒れた木の音が鳴ったかどうかは『俺には』わからないので、回答はできない。だが、しかし、それは解答がないということとは少し違うのかもしれない(だって、『俺が』いなくても『あなた』がそこにいた場合、あなたはそれが鳴ったというだろうし、『あなた』がいなくとも、その音が鳴った影響は因果律の中に含まれ、現在の『俺に』なにがしかの影響を与えている。そう考えるのがオッカム的にはまともだろう)」

と結論したいが、量子論の話を持ち込むとそう簡単に結論するのも難しいと思えてくる。

 

高校の物理の先生に言わせるなら、これは、波動関数の収束の問題でもある。

よく先生が言ってた二重スリット実験。

 

ミクロの世界では、ひとつの粒が、波と粒子の両方の存在様式を有している云々……確率の波がいずれか一点に確定し、ひとつの粒として人様の前に現れる。

かげぶんしんの術が、人様に見られることでピタッと一ヵ所に固まる。

箱をあけるまで猫が死んでるか生きてるか未確定(ご存じシュレーディンガーの猫)が確定する。

全宇宙の端から端まで行き届いていたう~~~っすい確率の波が、いずれか一ヵ所で粒子になる。

 

ちなみに具体的に何が起きてるのかはわからない。

 

だから学者は皆、ペーパーの上で展開される波動関数の収束が、この現実の世界において何を現象しているのかの「解釈」を考えた。

 

例えば、

  • コペンハーゲン解釈」……波動関数がひとつの値に確定したのだ。それだけだ。実際的意味など知らん派。
  • 「エヴェレットの多世界解釈」……波の確率分布の数だけ並行世界が存在するのだ派。※ホーキングの遺稿も多世界絡みだったらしい。今や正統なる市民権を得たのか。ゼロ年代頃は多世界解釈なんて持ち出せば「下らない」と一笑に付されていたことを思い出す。
  • パイロット解釈」……粒子は波(P波みたいな謎の情報波)に乗ってサーフィンしてるんやで。気分屋やで派。※なにやら原動力不明の謎の機関「EMドライブ」の原理はパイロット解釈に基づけば解明できるとかなんとか。うーん嘘くさい。

とりあえず解釈はどれでも良いので話を進める

※物理学者曰く、ペーパー上の理論は一切変わらないので、その解釈(人間の直感としてそれが何であるか)なんて何だっていいとのこと。確かに哲学の分野の話なんだろう。クオリアみたいな科学として掴みどころのない話であるわけだし。……いや、でもそうも言ってられない時代に変わってきたかな?

 

つまり、

「意識(意識生命体群~この私のいずれか)」がなければ「宇宙」という事実は起きない(或いは、人間にとって意味ある事実はおきない)。

言い換えるなら

これこそ「動き」の発生だ。

 

とりあえずの結論は、

■「意識」と「時空連続体」の相対運動=「生命」,「体験」,「事実(の発生)」,「動」

 

なんか何も言ってないに等しいな……。

なので飛躍させる。

 

例えば、仏教では「唯識」という教えがある。

 

「この宇宙には唯ひとつこの私の意識だけが存在している」

※客体はそれ自体のみでは存在し得ない(縁起説)。この宇宙は私が見ている夢のようなものである的な論。独我論と言ってもいい。客体に実体がないという側面では空とか空観を意味する。

 

また、中国の古話に、「蜃の夢」というやつがある。

「蜃(しん):ハマグリっぽい超巨大貝」という幻獣がこの世界のどこかに存在しており、その名の通り蜃気楼を作り出し人々を惑わせる。

もっと言えば、この現実世界そのものが、蜃が見ている夢だという。

僕達はハマグリだった。

寝落ちしてしまって自らホモサピエンスなる幻獣を妄想し複数の登場人物を配置して、いずれかの役になり切り、ドラマ(生命)を楽しんでいたのだ。

 

どこかで聞いたような話である。

 

胡蝶の夢だろうか?

或いは、ウパニシャッドの梵我一如か?

はたまた、ユング集合的無意識

いやいや、意外にもキリスト教の三位一体(父、子、聖霊)の唯一神の身体理論にも通じる。

それどころか「本当の自分を見つけよう!」と呼びかける自己啓発セミナーで聞けそうな話だ。

 

大我(ブラフマン)と小我(アートマン)、真如と我、クリスチャンなら聖霊の宿りある人と聖霊の宿りなき人……挙句、新世紀エヴァンゲリオン人類補完計画なんてオチは、キリスト教でいうヤーウェがシンジママで、イエス綾波で……とかうんちゃらかんちゃらめんどくさい本が90年代にたくさん出版されたことでしょう。

 

と、この私のこの「意識」についてと、最近では11次元確定かとさえ言われる「世界(宇宙或いは時空連続体)」の間をどうにかウルトラCで繋げようとするお話は過去にたくさんあったようだ。セカイ系とかまんまこれだし。

人間の世界認識における伝統であり定番なのだといってもいいのかもしれない。

ホログラフィック宇宙論なんてのも、曼荼羅的に部分のうちに全体が含まれるという理論で、まんざらでもなく「私=宇宙」的な含みを覚える。

■イメージ(徐々にカメラが遠のいて全体像をとらえていく):私の身体→私と部屋→家→街→地球→銀河→時空連続体(全世界)→私の意識(意識世界内に投影された全世界)→私のシナプス→私の脳→私の身体……のような無限感と、私の身体とは全宇宙である感。

 

「宇宙」と「意識」の接点にこそ、「動き」が存在しているというお話でした。

※だが、言うまでもなく、他者における「意識」とは何かという欠落については何も説明していない。

 

もうしこし余談的にだらだら続けるなら

 

「この私の意識」と「時空連続体」は表裏一体の様式で存在しているはずである。

※前述のホログラフィック宇宙論に従えば、「この私の意識」を辿っていけば「時空連続体」に辿り着くし、逆もまた然り。つまり私を裏返せば時空連続体になる。

 

どこかで聞いたような話だ。

そう。最近はやりのトポロジーだ。

例えば、トポロジーのドーナツの形状の外面の表皮部分が時空連続体で、その表皮の内側のリング型の空の部分(リングの中心の穴部分ではない)がこの私の意識世界だと考えるとどうだろう。完全に表裏一体で、宇宙で起きた事実はこの私の意識世界にも投影して起こる。矛盾はない。

では、「時空連続体」と「意識」の変換点はどこか?

→リングの中心の穴をすぼめていって、ぴたりと密着させた時→リングが球の形になったとき、この相転移が起こる一瞬に、「特異点」というのが現れる。リングの内側のものでも外側のものでもある状態。この特異点を介して、物理宇宙は意識を生んだのかもしれないし、意識は物理宇宙に帰すのかもしれない。或いは、意識は物理宇宙を生んだのかもしれないし、物理宇宙は意識に帰すのかもしれない。

※しかしこの場合、トポロジー多様体を発展させるものは何かという話になる。もう、初めに「意識」と「時空連続体」の間の「関係性」とか「動き」が先だってあって、その後に「意識」と「時空連続体」の発展が決まるとかでいいんじゃね(投げやり)?

関係性が先だって私とあなたが在る的な、私とは氏名Aなる私と氏名Bなる他者との「関係」が編纂する「関係するという体験そのもの」、宇宙は……いや神は、唯一絶対の単一存在としての永遠の孤独を癒すべく、自作自演のトポロジーの夢の中で自分自身とかかわり合い、且つ、己を知り(物理を情報に編纂し)、孤独を喪失しているのだ。生命同士が関わり合うという本能とは宇宙の大いなる意志であり目的であり、つまり関係すること、「愛」こそ全てだ。イエスはこの愛を謳う大いなる宇宙としての我、父としての宇宙、いや、父なる神、そして神の子としての自分に気が付いたのだ(ドン)!!

と、このように、意識と宇宙を学のないものがテツガクすると、ラーメン屋のおじさんあたりが新興宗教を始める際の飛躍と曲解に満ちた妄想に行きつくのがオチだ(最近のはやりはトーラス構造に主体と客体を当て嵌めたり、関係について愛とか言い出す飛躍だろうか。だが、こういう下劣な妄想は面白いのだ。だからSF小説としてやる程度が好ましいのである。間違っても我真理を得たりと演説をはじめてはいけない。三年後くらいに恥ずかしい思いをするだろう)。

※もう少し、下劣な妄想を進めるのなら、釈迦はこの自作自演の永遠の「関係」の連続を「縁起」によって「相対運動」し続ける「輪廻」と捉え、「無常」と言い切り、客体の宇宙を「色(しき)」と呼び、主観の意識を「空」と呼び、それらがトポロジー多様体で、特異点相転移することを、「色即是空」(色=宇宙・即=特異点・是=相転移・空=意識)」「宇宙は特異点に至り相転移し意識となり、逆もまた然り=空即是色」と言ったのだ。イエスが「愛」と呼んだものを、釈迦は「縁起」とか「輪廻」であり解脱すべしというのは面白い。この場合の解脱先である「涅槃」とは何か? を逆に物理学的に考えていくというのもこれまた面白いかもしれない。釈迦が涅槃についてほとんどそれ自体が何か語っていないので、信者も喜ぶこと間違いなしだ(しかし、涅槃や悟りそれ自体は瞑想やクンダリニーヨーガの階梯を経てクオリアとして知覚するものらしい。クリスチャンであれば精霊の宿りによって悟ることに対応するだろか? まぁなので、物理学的に云々というのは土台無理なのかもしれない。故に宗教界にも未だにニーズがあるというわけか)。

 

身体知篇2の小説では、こういうラーメン屋のおやじのなんちゃって物理学宗教観をふんだんに駆使したカルト教祖を登場させようと考えている(名前だけハートソンと決めている)。

ハートソンは、バプテスマの後に前述の真理(あくまで彼が言うとこの)に目覚める。

彼は、ブロンドの長い髪と髭に青い目の痩せてはいるが、目鼻立ちが整い、頬のこけた中年男性だ。ブロンドのイエスと呼ぶ信者もいる。

彼は自らを預言者であると説く。しかし、偽の預言者であると自ら警告をする謎の男。

彼のカルト教団では定期的に野外フェスのようなミサが行われる。

ゴアトランスが鳴り響くDJブース、踊り狂う信者たち、その中で、スポットライトを浴び、ステージに立つハートソン。

その姿は中世より前のまさにイエスのいで立ちに似る。

しかし、右手にはiPadが握られ、画面には電子書籍化された聖書が表示されている。両耳にはDJ用ヘッドホン、長いひげの口元にはインカムが伸びる。

ゴアトランスが鳴り響くなか、ハートソンは新たな福音を延べ伝え始める。

 

※しかしゴアトランスならヒンズー教じゃぁないだろうか……。